参拝のご案内

潮江天満宮の由来

history_michizane.jpg 鏡川の南岸、筆山北鹿の景勝地に鎮座。
 平安朝の名臣として、政治・文化・学問等に秀れ、広大無辺の聖徳を兼ね備えられた菅原道真公を主祭神とし、他に四柱の神を合せお祀りしている。
 道真公は学者より身を起し、昌泰(しょうたい)2年(899)には右大臣に進まれ、左大臣藤原時平と並んで政務を執る事となった。
 識見信望共に抜群である事を快く思わない藤原時平は密かに排陥(はいかい)の策をたて、やがて昌泰4年<延喜元年(901)>1月25日、道真公は太宰権師(だざいごんのそち)として西海に左遷され、同時に長男の右少弁菅原高視朝臣もまた土佐権守として京都を遂われ土佐国潮江に住居した。
 道真公が太宰府(だざいふ)で、延喜3年(903)2月25日に薨去(こうきょ)されると、侍臣白太夫は遺品を護持してこれを高視朝臣に伝えるため、はるばる土佐に来国した。白太夫は老齢と難路に苦しみ健康を害し、ようやく長岡郡大津村舟戸(現高知市)の霊松山雲門寺にたどりついたが病を発し、延喜5年(905)12月9日79歳で歿した。
 高視朝臣は、白太夫の没後その遺品をおさめ、これを霊璽(みたましろ)として祀ったのが潮江天満宮の由来である。
 尚、高視朝臣は、延喜6年復官し京都に帰り、延喜13年38歳で卒去(そっきょ)したとあるが地元の説では、延喜6年この地にて逝去され、現在屋敷跡と共に墓所(おくつき)もあり、年に3回墓前祭がおこなわれている。 

伝統と経過

 伝えによると、高視朝臣が菅原道真公の遺品を霊璽(みたましろ)として竜神(りゅうじん)の祠(ほこら)へお祀りして以来約1100年が経過し、潮江地区、内街地区〔南街、下知・高知街(電車通より南、一部・電車道より北)〕の産土(氏神)神としての信仰があり、恒例祭、毎月2回(月次祭・朔日祭)の祭典、さらに境内社の毎月の祭典(3回)が行われ、1月25日のうそ替神事、2月3日の古式追儺式、2月25日の古式菜種祭等の伝統的神事も執り行われており、多数の参拝者が年間を通じて参詣している。

社殿並建物

history_shaden.jpg 慶長の現在地への移転後藩政時代に於ては、山内家の尊崇篤く直営で社殿を造営した。殊に嘉永6年(1853)に建立された楼門は、昭和42年に高知市保護文化財に指定されたが、名工島村三四郎苦心の彫刻があり、郷土芸術の誇りとされている。
 昭和3年(1928)10月16日放火により社殿を焼失し再建したが、更に昭和20年(1945)7月4日大東亜戦争中米軍機の空襲により、本殿、弊殿、拝殿、社務所、絵馬殿、神饌所祭器庫等主要建物が殆ど烏有に帰した。
 同年8月15日には敗戦となり、戦争は終ったが国民は混迷のうち年を経て、同昭和26年頃より世情も回復したので、氏子崇拝者の協力を得て、昭和33年(1958)には、弊殿、拝殿の再建工事が完成。昭和40年(1965)には誠道館(集会、神社の用に供する)の新築。昭和62年に社務所の再築、祝詞舎の増築を行い、更に戦前の本殿建築にとのもとに平成7年(1995)に本殿・塀・祝詞舎の再建に続き、神霊舎・神饌所・祭噐庫・授与所・手水舎等の再、新築工事、また境内神苑等を整備拡充して輪奐の美を整える努力をしている。